高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者は誰?
築造時期
築造時期は高松塚古墳が694年~710年の間で、キトラ古墳は7世紀末~8世紀初頭頃と推定されていますので、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者は、ほぼ同時期に亡くなられた方と考えられます。
日本人か外来人か
日本国内で石室内に壁画が描かれている古墳は、この高松塚古墳とキトラ古墳の2例しかなく、また、日本人には墓に絵を描くという文化・風習はありませんので、高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者が日本人である可能性は低いと思います。
日本人説を主張する人の間では、被葬者を皇子とする人が多いですが、ではなぜ2例だけなのか、また、7世紀後半に築造されたとする天武持統天皇陵の石室内の様子を詳細に記された文献が見つかりましたが、壁画が描かれていたとは記されてはいませんので、その理由を見出す必要があります。
しかし、中国や朝鮮の同時代の古墳では、石室内に壁画が描かれている例が数多くありますので、外来人の方が有力と思います。
壁画から考える
キトラ古墳には頭が獣で体が人間の獣頭人身像が描かれています。
このような十二支の獣頭人身像の壁画は、中国では7世紀頃、朝鮮では8世紀中頃の古墳に見られます。
これらの古墳の推定年代を信じた場合、キトラ古墳の築造年代は中国より後、朝鮮より前になりますので、被葬者は中国人の方が可能性は高いと思います。
天文図から考える
キトラ古墳の天文図は、実際の夜空にある星の位置等と、合っているところと合っていないところがあると言われています。
この星の位置等を基に天文学者が研究した見解では、観測した時期が西暦300年代と紀元前65~40年頃という2つの説があります。
どちらの説でも観測場所は、北緯34度付近の中国の長安の辺りとしています。
被葬者は誰か
これらを基に考えた場合、キトラ古墳の被葬者は中国人の可能性が高いと思います。
また、高松塚古墳の被葬者も同じ国の方と考えた方が妥当でしょう。
したがって、被葬者は7世紀中頃から後半に大陸から渡ってきた方でしょうか。
遣唐使と共に渡ってきた方かもしれません。
また、高松塚古墳は研究者の間で文武天皇陵として有力とされている中尾山古墳のすぐ真南にありますので、文武天皇(683~707年)と強い関係があるかもしれません。
しかも、高松塚古墳と中尾山古墳の直線上に新益京の宮殿があり、キトラ古墳もほぼ南にありますので、何か関係があるのでしょうか。