鬼の雪隠と鬼の俎
おにのせっちんとおにのまないた

概要

雪隠(せっちん)とはトイレのことで、旅人がここを通ると鬼が旅人を捕らえて、まないたの上で料理をし、せっちんで用を足したという伝説からこの名が付きます。

実際には、これは墓(古墳)で、まないたの部分が底になり、せっちんの部分がフタになります。
せっちんの部分と合わせる扉部分は失われています。

大きさ

せっちん:高さ1.3m 内側の幅1.5m 内側の長さ2.8m
まないた:長さ4.5m 幅2.7m 厚さ1m

明治時代に、まないたから9m程離れたところから、まないたと同様の形状をした石材が発見され、現在、橿原考古学研究所に展示されています。
この石材は、元はまないたの左側にあったと考えられ、2つの石槨があったのではないかと考えられています。
他の古墳と同様に元は土が盛られた状態で、41m程の長方墳だったと考えられています。

アクセス方法

徒歩・自転車の場合

右上の枠のマークをクリックするとアプリで開けます。

飛鳥駅に近いので最初の方か最後の方に行く場合が多いです。

最初の方に行く場合は、欽明陵へ行き、欽明陵手前で右(東側)へ曲がります。
この道伝いに上がって行くと、鬼の雪隠と鬼の俎に着きます。

気付かずに通り過ぎる場合があるので、右側を見ながら行くと鬼の雪隠が見えます。
左側の階段を上がると鬼の俎があります。

最後の方に行く場合は、亀石の前の道を西へ下って行くと着きます。

自動車の場合

右上の枠のマークをクリックするとアプリで開けます。

鬼の雪隠と鬼の俎のある道は、自動車でも通れるようですが、小道なので徒歩で行った方が確実です。
自動車を停める場所は、天武・持統天皇陵の南側に駐車場がありますので、こちらに停めて、天武・持統天皇陵に上がって行きます。
上がると反対側に小道があるので抜けると鬼の雪隠と鬼の俎のある道沿いに出ますので、左に曲がり下って行くと着きます。

考察と感想

鬼の雪隠と鬼の俎に来て、まず思うことは、
「これは何なの。」、そして、
「これは自然になったの?それとも誰かがやったの?」でしょう。

これらが自然になった可能性は低いと思います。
なぜなら、すぐ近くにある古墳では原型を留めているからです。
また、もし、自然になったなら明日香の住民の方は何とかして戻そうとするのではないでしょうか。

したがって、誰かがこの墓を暴いた可能性が高いと思います。
しかし、日本人には墓を暴くという思考自体がなく、そういう話しも聞いたことがありません。
したがって、本来、考えもしないことなのですが、この明日香村だけは違います。
もうすでに暴かれている墓が他にもあるのです。
ご存知の通り石舞台古墳です。
石舞台古墳はどう見ても暴かれているのです。
したがって、この鬼の雪隠と鬼の俎も暴かれているという考えが思い付くわけです。

学者の方では、石舞台古墳や鬼の雪隠と鬼の俎が暴かれているということを認めない、もしくは触れない方が多いですが、では自然にどうやってこのようになるかの理屈を教えてほしいです。

日本書紀を読んだ場合、合わないから見て見ぬ振りをしてると思います。

誰の墓か

古墳の築造は7世紀中頃から後半で、精巧に造られた石槨から位の高い人(おそらく天皇や大臣クラス)、双墓(2人)で墓の暴かれる人物から考えられる人物は、
蘇我入鹿・蝦夷
以外にいないでしょう。

また、石舞台古墳も暴かれているわけで、その被葬者としては蘇我馬子が有力とされていますので、馬子・蝦夷・入鹿の三代の墓が暴かれたと考えれば合います。
また、入鹿と蝦夷は日本書紀によれば、ほぼ同時期に亡くなっていますので、双墓というのも合います。
もちろん、後から亡くなった方が合葬されるという例はありますが、鬼の雪隠と鬼の俎の場合、もう一つの石槨はほとんど残っていませんので状況はわかりません。

では、この古墳はなぜの名前が付き、の伝説があるのかですが、
実は、
入鹿と蝦夷は鬼に例えられている
のです。

日本書紀の斉明天皇七年の斉明天皇葬儀の際に、
「朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。人々は皆怪しんだ。」
と書かれています。

そして、平安時代の文献の「扶桑略記」には、その鬼のことを人々が豊浦大臣と話していたと書かれています。

豊浦大臣とは日本書紀によれば蘇我蝦夷のことで、先代旧事本紀によれば蘇我入鹿のことと書かれています。

その他にも斉明天皇には鬼にまつわる話しが見られます。

鬼と斉明天皇にはどういう関係があるのでしょうか。

これについては少し前に戻ります。

中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変の際に、助けを求めた蘇我入鹿を斉明天皇(当時は皇極天皇)は、無視してその場を立ち去るのです。

したがって、この鬼は蘇我入鹿の祟りで斉明天皇の前に現れたのかもしれません。

そして、この鬼の雪隠と鬼の俎が蘇我入鹿と蝦夷の墓とするなら、鬼にまつわる伝説も作り話だと一笑するわけにもいかないでしょう。

ただし、日本書紀によれば、蝦夷は大陵、入鹿は小陵として双墓を造営したと書かれています。
これを信じるなら、鬼の雪隠と鬼の俎は大小ではないので違うということになります。

では、誰の墓でしょうか。

7世紀中頃から後半に亡くなった方で位の高い方、おそらく2人で、墓を暴かれる人から想像してみてはいかがでしょうか。